アロマテラピー多事争論4  2002年「年頭所感」


 皆さん、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。今回は新年第一回の多事争論ですから「年頭所感」ということになります。
 かつて大学で南北問題のゼミに参加していましたが、南北の経済格差は何故に生まれたのか?何故に解決しないのか?を他大学のゼミ生たちと議論したことがあります。簡単なのは以下のようなパラダイムです・・・
「南(後進諸国)は資源しかなかった、だから北(いわゆる先進国)に植民地支配され、都合のいいようにされた、これは議論の余地なく南が怠慢であった事が原因でどうしようもないのだ」
「北には頭脳があった。これは北の民族に優位性があったからで、その勤勉な努力があったからこそ南北問題は生まれたのだ」
 「それぞれ崇拝、宗教、経済システムなども発展性のない民族だったからしょうがないのだ」
若い僕らはそれぞれ、様々な局面から南北問題をとらえ、その処方箋を議論しあったものです。そしてまとまりのない(お恥ずかしいですが・・若さですね)結論へとたどり着く・・
 「優位者は劣勢を都合のよいように利用しようとするし、それは低い賃金、安く広大な土地、地下にまだ残っているだろう資源(彼らはそれを知る由もない)があり、知識、知恵が働く前に確保する(支配する)という歴史のもとにやむを得ず生まれた問題なのだ。これらには明確な処方箋は存在せず、対症療法的に行うしか術はない」「いや、根本原因は教育にあるのであって、これからでも教育を行うことで可能性は残されている」というようなものでした。
 しかし、面白かったのはそれらの議論でした。討論とは名ばかりでそれらのテーマについての論理展開のあげあしをとる・・我関せずを決め込む・・執着しいつまでも終わらない・・最近ありましたねえ「車よりクマが多いとはなにごとぞっ!」とすごんだり(笑い、その後総理は「くまったくまった」などとダジャレを飛ばす始末)。
 国会では法の解釈をめぐって様々な事が議論されています。そして彼らには議会民主制度のもとに(いろいろ問題もあるようですが)法の改正案などがかけられる・・。それにより自衛隊が海外に行ったり、新しい税金が出来たり、介護保険制度が出来たりしています。それぞれ国家にとっての必要事項として懸案となっていたものですね。合憲、違憲と様々な議員さんが胸ぐらをつかんだり、水を引っかけたり・・しかし、我々が選んだ議員さん達がやっているんだからこれはしょうがない話。で、多数決で法改正となる。実際の白黒がつかないことがあるんです。それを人は「グレーゾーン」と呼ぶわけ。
 一方、法曹の世界では訴訟が起こり「ある一定の出来事が法を犯しているか否か」が争われる仕組みになっています。訴える側、訴えられる側共に意見を出し合い、それが裁判官によって結論づけられる。このとき「判例」が生まれます。法律の文言を変えるわけではない。法律の解釈の一つの実例ですね。この判例が、その後の類似した裁判で大切なものとなるわけです。法律の文言を解釈し、自らそれを主張する際には関係の法律の全てを網羅することが必要です。だから弁護士資格は司法試験に合格していなければならない。裁判官、検察官も同様です。簡単に裁判官にはなれないんです。
 さあ、アロマですね。その話をば。
グレーゾーンはグレーゾーンですね。それ以外の言葉で表すことは出来ない・・。当然のことです。黒白はっきりしろっ!!だって黒でも白でもないんだもん・・。ということです。まずはその話。黒白はっきりしてないからグレーゾーン。もしそれが違法なのか合法なのか?を戦わせるのは裁判所で司法の担当者が行うもの。必要とあれば既存の法律の改正案が出る・・(これはその「グレーさ」加減が既得権者に著しく不利益となったり、消費者が不利益となる。これがとてつもなく社会的に問題になるなどで起こりうる)というわけ。したがって「個人的な法の解釈(これが一番危険です。裁判官じゃないんだから)」を後ろ盾に一定の論理展開を行うならば「文責」を明確にすべきでは?と書きましたし、もっと前に行うべき事があるのではないかと。そして二律背反を背負っているのではないか?と指摘したまで。
 アロマを日本の文化に定着させる・・これはまずはアロマが本当か?を追いかける事すら出来ていない現在、家庭に根付くのは「本当か?」のアロマなのではないか?と感じます。参考文献の曖昧さ等を検証することすらせずWeb上に展開したり(臨床家のホームページでさえそうなのではないでしょうか?)、鵜呑みにすることを教育がやっている現在、その先の家庭に定着させることなど、絵に書いた餅ですね。私は「養成=アロマの日本への定着」といったことはありません。もっとその前にやることがあるのでは?といったまでです。もっとその前??これは「養成」ではなく、教育ですね。教育にはそれぞれレベルがあるのでしょう。勿論様々なレベルがあり、玉石混淆ですから、ある意味淘汰される時代が来るのでしょう。残るのはどういった理念で行っているか?がはっきりしているところ。またその理念に協調性が存在すれば様々な壁を越えて意見を交換しあうことも可能なのではないかと思います。
 年頭所感ということで書き連ねてみましたが、今年は昨年にまして景気の動向に注目が向けられる年となるのでしょう。私たち一人一人もそのことを考えざるを得ない年となりそうですね。医療保険制度改革、失業者対策などの動向によっては「あはき法改正論議」も出るのかも知れません。情報に振り回されるのではなく、地道に基礎固めを行う、よい年となることを期待しますね。これからもよろしくお願いいたします。


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アロマテラピー多事争論3  ホリスティックの名の下に?


皆さんこんにちは。今日取り上げるのは「ホリスティックの名の下に」というテーマです。ホリスティック・・ホリスティックという言葉が私たちの目に留まるようになってから10年ぐらい経ったのでしょうか?ホリスティック医学協会が誕生したのが1987年のことです。Holisticはギリシャ語の「Holos」(全体)という言葉を語源にし、「全体的」「全的」「全体論的」と訳されます。アロマテラピーの世界でもホリスティックという言葉が持ち出されることがあります。その際には先の語源の説明に『「Holos」を語源に持つ他の言葉として「Whole」(全体)「Heal」(治癒)「Holy」(聖なる)という意味があります』と記載されます。つまり、アロマテラピーはホリスティックセラピーの類だから、聖なる力を利用しながら治癒を促すのだ、と感じざるをえない、といった響きがあるのではないかな?と感じます。つまり「植物の聖なる力を借りながら、ヒトを全体的に癒す」というパラダイムなのかな?と感じます。そして、ホリスティック医学もしくはホリスティック医療は「医療資格を持たなくても行える全体的な癒し」に関与しているかのような印象を与えることになったことを皆さんはご存じである思います。しかし、ホリスティック医学協会の中心になっていたのはまぎれもなく「然るべき技術、知識を学んだ識者」であり、そのスタンスも代替医療等の基本理念を見直しながら現行の日本の医療について不足がちであったところを補う医療のあり方を模索していたのではないかと思います。つまり「患者を具体的な器官別の病態と診がちになってしまった現代医療のあり方を見直し、病気を持った一人の患者としてその患者自体をホリスティック(全体的)に診て行こう」という基本理念がどこかでゆがめられてしまったような気がしてならないのです。
 では、どのようにゆがめられてしまったのでしょう?これは全体像を診るために必要な知識、技術がないがしろにされている・・それにつきるのだと思います。費用、期間の様々なコース、解剖・生理学などの時限数の圧迫、などです。どうすれば補えるのでしょうか?結局はせっかく取った資格、認定も無駄にし、サロンはおろか、人の体に触れることさえ出来なくなっている方々の声を聞く以外に方法はありません。彼女たちの声はこの様なものです。・・「教わったけど怖くて人の体に触れるなんて出来ないわ」「しばらくしたら忘れてしまって、やる気がなくなってしまいました」・・。
 〜何故、怖いのか?〜
 それは人の体が非常に微妙に協調しあった組織器官系のバランスと精神などの影響を伴って微妙に変化する有機体であるからなのではないかと思います。東洋医学、アーユルヴェーダなどはそれら精神的な部分でさえ、診療の際に調べながら行われるいわばホリスティックな体系であると感じます。そしてその体系は、非常に長い時間をかけ練り上げられたものであるはずです(僕など、まだまだ東洋医学を語るには分不相応です)。そしてそれらの大系は非常に長期のいわば「師弟関係」の中で培われるものであり、卒業という言葉はあまり使われるものではありません。むしろ、免許皆伝等の言葉がふさわしいようです。
 〜何故、忘れてしまうのか?〜
鍛錬という言葉があるとすれば、それは「継続することでしか会得できない技術」を得るために用いるものですね。ぼくらも同じです。会得することさえ出来ず、クライアントの合間に絶えず教科書や医学事典をひっくり返していますし、練習も行います。それらによってこそ「身に付く」のではないかなと思います。しかしこれも個人差があり、どれくらいやったから・・という秤はないのかなと思います。
 ホリスティックとは・・・と考えながらお話を進めてきました。やもするとアロマテラピーが出来なくなるような気がしてしまいます、が、僕はそうは思いません。つまりホリスティックなアプローチのための「いばらの道」は、果てしなく長く、また終わることはないのだと思います。それだけ体の知識を有すること、植物に対する知識を有すること、我々哺乳動物、ひいては地球環境や自然科学の幅の広さをも包括する知識を得ることをいとわなければアロマセラピストとして差別化は可能ですし、ホリスティックなアプローチも勿論のこと、その先は地域に根付いた貢献が出来るのではないかと思います。
頑張りましょう。
ご意見などは掲示板にてお願いいたします。

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アロマテラピー多事争論2  それぞれの得意種目?


こんにちは。おおいそです。今日は「それぞれの得意種目」と題して、書いてみることにしたいと思います。ご存じの通り、うちは「鍼灸マッサージ」の治療院なんですが、治療院を開ける時って、「患者さんは最初から来てくれるのかなあ?」とか「どんな患者さんを診ることになるのだろう?」とか疑問がわくものです。そして、清水の舞台から飛び降りたつもりでオープン・・・これまでの歴史を振り返ることにしましょう。
 鍼灸の施術による得意種目って何だろう?僕らは法律で「特定の疾患名を広告すること」を禁止されています。それは法律の問題だからいかんともしがたい・・・しかし、巷の消費者の方々からすれば「はり、きゅう」への期待度というのがあって・・「あそこの先生のところはギックリ腰が上手」「あそこの先生は膝が上手」みたいな口コミがたよりとなる。つまり、整形外科系の疾患がその治療院の技術のバロメータとなっているのかな?と思います。確かにうちも最初はそういった患者さんがとても多かったんです。僕なんて、鍼灸の世界では新参者でいきなり「東洋の神秘で内臓も治す」等といえる状況ではない・・・はず。しかしね、患者さん達への実績で段々と難病をお持ちの方々が増えてくる、という流れになってきました。おかげさんで様々な疾患について患者さんに教わりながら(まさにその言葉がぴたりと当てはまります。勿論調べることは自分でやるが)、確実なものにしていく・・・。ということですが。

さて、では鍼灸以外ではどうなんだろう?法的に広告の制限のない「整体、アロマテラピー、カイロ、ホメオパシー」の領域ではある意味、どのような疾患名を書いてもおとがめなしなんですね。したがって、僕が一消費者として、たとえば「カイロって?」と考えたとき、「O脚矯正」「体のバランスを取る」・・・と考えてしまいます。クイックマッサージだったら「肩こり、腰痛」ぐらいかなあ?そんな風に「得意種目=消費者の理解度」といった構図があるような気がしてきました。
 
じゃあ、アロマテラピーってどんな理解度があって、得意種目はあるのかな?と考えてみることにしよう!!となる。僕の昔の経験では「リラックス」なのかなあ?ではリラックスってなんぞや?と考える・・・「体の力が抜ける?」「精神的、肉体的に緊張がとれる?」というようなものかな?でね、今のアロマテラピーって、前に書いたように「精油の効用」が一人歩き・・・そこでアロマテラピーの得意種目を考えようと思いました。たとえば広告するときどのように考えるのか?「ストレスリダクション」?「ストレスマネージメント」?この様なものだと、日本語的ではないが、いいのかな?と感じます。しかし、幅が広いからいろいろな疾患を持つクライアントが来る可能性がある・・それらをしっかりと押さえた教育がされていればいいのかなと感じました。あとは「足のむくみ」とか「肩こり」のような具体的にお年寄りでも分かるような言葉・・・もいいのかな?そうするとそれに関わる「整形外科的、内科、神経科、外科」の領域を学びからのぞくことは出来ないですね。そんな風に考えるととても幅広い「医学」という言葉の中の得意不得意がクライアントからも見えて来るのではないでしょうか?
ご意見など、掲示板などでお待ちいたしております。

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アロマテラピー多事争論1  アロマテラピー多事争論


みなさんこんばんは。今日はタイトルが怪しい・・もともと筑紫哲也さんの多事争論、「異論反論オブジェクション」のころから好きだったんだ〜。ま、それはさておき、今日から少し続けてみようか・・と考えています。

今日は掲示板で展開されたとおり、「効用と文献と実績」というような事を書いてみましょう。
「アロマテラピーでつかれた身体を癒す」「あなたのストレスにアロマテラピー」などと日本に紹介されたアロマですが、この時代に精油の効用は「リラックス」「シャープネス」「ストレスリダクション」等であったと思います。いわば、「効果は感じるもの」であり、効果があるかないか?は個人に帰すると考えてよかったのだと思います。R.Tisserandの文献が発売され、その後の様々な研究家達によって精油への(実はその植物自体への、というところが現在の問題であるかも知れませんが・・)情報が集積されましたね。現在はアロマセラピストのバイブルが幾種類も存在しています。バイブルは一つの植物に「より多くの効用」が記載されたものがすばらしく感じるものです。また、多くの種類の精油を取り扱っている書籍に人気が集まりました。

 つまり、「大枠としての効用(たとえばリラックス)にいくつもの精油名があげられる時代」から「各々の精油にいくつもの異なる効用が記載される時代」へとシフトしたわけです。確かに昔の文献ではリラックスの項目にラベンダー、カモミール、クラリセージ、レモンなど様々な成分特性を持った精油が並んでいました。また、当時は慣用名表記、産地非表示、蒸留年度なども不明で、ほとんど全てが雑貨扱いであったことを思い出します。しかし、当時より業界をリードしていたアロマトピアでは精油の抗菌活性、人体への作用、動物への作用の記載はなされていました(バックナンバーを是非そろえていただきたいと思います)。その後、精油の各論の展開がなされましたが(R.Tisserandもすでに行っていました)、引用文献の表示はなされませんでした。しかし、その展開により、精油はそれぞれ特定の作用を持つもの、との考え方が定着する事になりました。また、英国のみならず、フランスよりの文献が紹介されるに従い、「メディカルアロマテラピー」と呼ばれるグループが形成されました。メディカルアロマテラピーとはただ医療として精油を用いるのではなく「医療的知識に根ざしたアロマテラピー」を指しているのではないかと思います。つまりメディカルユースの精油群を用いたからメディカルアロマテラピーなのではなく、「メディカル」に関わる基本的知識を身につけて行うアロマテラピーが必要となると思うのです。現在はそれらの基本的知識のみがないがしろにされ、「精油の効用」が一人歩きです。これはつまり、文献に書かれている「効用」を病態把握なしに適応する危険性をはらんでいます。kumaさんの書き込みにあるように学んでいる方々は「血糖降下作用」のある精油を疑問視を持ちながら見つめています。僕もそれでいいと思う。

僕も基本的事項として以下のことが明確化されない限り、精油の効用は立証できないのではないかと感じている・・・・

1)その効用が発生した病名に対する説明のあるなし。
2)効用を発揮するとされているのがその植物の「精油なのか?熱水抽出物なのか?」
  等の情報のあるなし。
3)ある一定の作用を期待する場合、体重あたりの投与量(経皮、経口を問わず)の
  表示のあるなし。
4)継続投与の危険性、継続期間の指定などのあるなし。

この様なところを疑問に持つ姿勢・・必要なのでは?ご意見など、掲示板などでお待ちいたしております。

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